2016年4月21日、現人神が本物の神になってしまった。

 プリンス・ロジャー・ネルソン、ミネアポリスに所有のスタジオで死去。57歳。

 ひどく、ひどく悲しい。自分が音楽活動をするにあたって、一番影響を受けたといっても言い過ぎではないアーティスト。どんなに頑張っても絶対に手の届かない、無尽蔵の才能を持つ異次元の天才。斜に構えたカリスマ。基準となる絶対の存在。
 とにかく今は涙を流すだけ。死んだなんてとても受け入れられない。でも、何か書いておきたい。自分の心の中の彼の残像を書き留めておきたい。彼のことを知ってからの32年間を。

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 彼を知ったのは13歳のころ、アルバム”Purple Rain”の大ヒットの最中のことだった。当時洋楽を聴き始めたばかりの私は、毎日浴びるようにラジオを聴いていた。まだレンタルレコードのシステムも黎明期で、当時住んでいた田舎ではそういった店がなかったので、週間FMやFMステーションなどのラジオ雑誌を買いあさり、ラジオのエアチェックに明け暮れる日々だった。
 彼の曲はラジオやテレビから自然に耳に入ってきていたが、本格的にハマるようになったのは、同じクラスに熱狂的なファンがいて、押し付けるように”Purple Rain”と”1999”のカセットを渡されたからだ。
 聴いて一発でのめりこんだ、という訳ではない。ただ、当時流行のブリティッシュ・インベイジョンの主流アーティストであるデュラン・デュランやカルチャー・クラブのような、ソフィスティケイトされたアーティストにはないワイルドさ、危険さを感じたのだ。「これはヤバい音楽だな」と。
 ラジオとウォークマン(のバッタもの)を手に入れ、アニソンからベストテンを通ってようやくデュランやハワード・ジョーンズなどを聴き始めた当時のウブな中学生の私は、彼の歌、叫びを聴いた瞬間に、今までに経験したことのない猥雑な(当時そんな言葉は知らない)雰囲気を肌で感じ、もっと聴きたい、もっと感じたいと思ってしまったのだ。
 当時は歌詞をじっくり読むことはなかったのだが、とにかくサウンドが独特でカッコ良い。“When Doves Cry”の、ベースまでも削ぎ落とした最低限の音で奏でられる切なさ、”Let’s Go Crazy”の狂騒、”I Would Die 4 U”~”Baby I’m A Star”の多幸感. . . 
 これらの楽曲のライブ演奏を見ると、また違った興奮に包まれる。現在オフィシャルでは見ることのできない映像ソフト”PRINCE & THE REVOLUTION LIVE”は、2時間まるごとの至福だ。極上の楽曲をさらに磨き上げ、バンドを自分の手足のごとくコントロールし、自身の存在をこれでもかと見せつける。
 この作品がDVD化されていないことは本当に残念だが、演奏とは関係ない部分の音のクオリティに問題があるので、再リリースできないのだろう。

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 “Purple Rain”は世界中でヒットし、彼の知名度とセールスを一気に押し上げた。映画も作られ、アルバムと供に大ヒットを記録した。田舎の中坊が映画館で鑑賞するにはちょっとはばかられる内容の映画だったので、公開当時は見ることができなかったのだが、運良く年上の従兄がVHSのテープを持っていた。
 この映画で彼のビジュアルを改めて目に焼き付けるとともに、ライブハウスという場所の雰囲気と、バンド対バンド、メンバー同士の確執など、後にものすごく身近なこととして散々経験するようなことを覚えたのだった。

 ところで、”Purple Rain”のアルバムと映画は広く一般に受け入れられたが、彼はその見た目や発言(そもそも当時はインタビュー嫌いで考えていることが伝わりにくい)、突飛な行動などから、ファンを選ぶアーティストだ。とにかく濃いルックス、特徴的なしぐさ、誇張されるナルシシズムとエゴイズム。好きな人は好きだが、嫌いなひとは徹底的に嫌う。そんなアーティストである。
 そんな訳で、あまりおおっぴらに彼のファンとは言いにくく、たまに同じく好きなひとが現れるとそれはもう嬉しかったものだ。

 映画”Purple Rain”が日本で公開された年、ニューアルバムがリリースされた。Purple Rainの大ヒットがなかった事のように、全く別のテイストを持つ”Around The World In A Day”というアルバムは、リスナーのド肝を抜いた。このアルバム以降、音楽やビジュアルのスタイルを次々に変えながらプリンスはヒットを連発してゆくのである。

 1984年 : Purple Rain
 1985年 : Around The World In A Day
 1986年 : Parade
 1987年 : Sign “o” The Times
 1988年 : Lovesexy
 1989年 : Batman

 1982年のアルバム”1999”からのプリンスの最初にして最高の黄金期は、私の思春期とぴったり重なる。この多感な時期に、彼の音楽にリアルタイムで接することができたのは、本当に幸せだったと言うしかない。この時期の柔軟な感覚だからこそ、めまぐるしいスタイルの変化を受け入れ、その偉業を掘り下げてゆくことが出来たのだと思う。また今のように情報過多でなく、周囲の洋楽を聴く人種も限られていたため、あまり目移りせずに聴き続けられたのも幸いしたのかもしれない。

 プリンスは、基本的に多作なひとである。
 この時期はほぼ年に一枚、非常に高いクオリティのアルバムを作りヒットを飛ばす傍ら、ザ・タイムやアポロニア6などをプロデュースし、「ミネアポリス・サウンド」を確立、そのほかにもシーナ・イーストンやバングルズなどに楽曲を提供、パープルレインツアーに帯同したシーラ・Eはグラミー賞にノミネートされた。
 これらの音楽を、喫驚しながらも次々と芋づる式に聴きながら、彼自身の音楽ももっともっと聴きたいと思った私は、アルバムでは飽き足らずシングルのB面も細かくチェックするようになった。当時リリースされていたシングルのB面曲のほとんどがアルバムには未収録で、ラジオでもなかなかオンエアされないため、シングル盤を手に入れないと聞けない。どうにか聴きたいので、限られた小遣いをやりくりし、プリンス好きの友人を抱き込み、どっちがどのシングルを買うかを分担していた。
 この時代のB面曲には”God”、”Erotic City”(シーラ E.とのデュエット)、”She’s Always In My Hair”など、クオリティが高いものが多い。

 脱線するが、80年代に流行した音楽フォーマットに、12インチシングルというものがある。
 当時のアナログ盤は、アルバムが12インチ/およそ30センチのサイズで、33 1/3 RPM(1分間に33と1/3回転)、シングルが7インチ/およそ17センチのサイズで45RPMだが、12インチのディスクサイズで45RPMの「12インチシングル」というフォーマットが存在した。70年代後半のディスコブームで、シングル曲のより長いバージョンが必要とされたため、収録時間の長い12インチのディスクを45回転で回し、シングルのより長いバージョンに対応したのである。音質もそのほうが良いらしい。
 80年代当時、ヒットシングルは大抵ロングバージョンが数タイプ作られ、12インチシングルとして売られていた。
 さてこのロングバージョン、もともとレコーディングされた素材をもとに、リミックス、編集したり、新たな楽器を足したり(大抵はパーカッション)して演奏時間を倍~3倍くらいに作るのが主流で、このロングバージョンのリミックスをするエンジニア、プロデューサーも、アーティスト並みの知名度を持っていた。
 アーサー・ベイカーやボブ・クリアマウンテン、ジェリービーン・ジョンソンなど、シングルのタイトルに、「誰々ミックス」などとクレジットされる時代である。80年代半ば、個人的にはアーティストのほかにこういった名前を覚え、漠然とこんな仕事ができたらと思い始めた頃でもある。
 もちろん中には、ただリズムだけの部分を引き延ばしたり、サビのフレーズをサンプラーに取り込んで連呼させるといった退屈なものも存在した。

 彼は、というと、もちろん12インチシングルはリリースしていた。ただ、当時の彼の楽曲の多くは、もともとがロングバージョン並みの長さを持っていた。アルバム”1999”は、個々の楽曲は7~10分の長尺のまま収録され、結果的に2枚組みでリリースされた。続く”Purple Rain”からの12シングルは、”When Doves Cry”、Purple Rain”がアルバムそのままの(編集されていない長尺の)バージョン、”Let’s Go Crazy”が、映画で演奏されている、曲の中盤がジャム的展開になっているいかにもライブなバージョン、”I Would Die 4 U”が、実際のツアーバンド編成によるライブのリハーサルバージョン。
 水増しがないのである。
 更に”Around The World In A Day”、”Parade”からの12インチシングルは、最初の部分はもともとのシングルバージョンとほとんど変わらず、シングルでフェイドアウトされてゆく部分がフェイドアウトされず、延々演奏が続く。“America”という曲に至っては回転数も33 1/3RPM仕様になっており、フェイドアウト以降が延々15分以上も続くのである。B面の楽曲も同様なので、これらはもともとのサイズが長く、7インチの通常シングルおよびアルバムはそれ用に編集されているのである。
 水増しがなく、アルバムバージョンはむしろギュっと濃縮されているのだ。こういう部分にも、他のアーティストとは違う魅力を感じてしまうのだ。


 彼は、ギターもピアノもベースもドラムも演奏する、いわゆるマルチプレイヤーである。私的には、作曲をするひとはそういうスタイルが自然だと思っていた。いろいろな楽器が演奏できれば、いろいろな表現ができる。私自身、彼の音楽と出会うのとほぼ時を同じくして、様々な楽器に興味を持ち、演奏することを覚えた。ひとつの楽器の修行を続けるのではなく、ギター、ベース、キーボード、ドラムなどいろいろな楽器でいろいろな表現をしようと思ったのは、彼の影響によるところが大きい。

 彼には当時、ザ・レボリューションと呼ばれるバックバンドがいた。映画”Purple Rain”でも大フィーチャーされるそのバンドは、ウエンディ&リサの女性プレーヤーを看板にライブでのバックを固めていた。
 このバンドは”Purple Rain”以降、アルバムが出るたびにメンバーチェンジ/増員をするのだが、1986年の初来日のステージを最後に解散してしまう。当時のマスコミは「発展的解散」という言い方をしていたが、実質的には全員解雇である。彼がすべてを仕切り、まとめ上げ、指示を出し、方向性を決めてゆく、彼が絶対君主として君臨するバンドだったわけだ。
 レボリューション解散後に発表されたアルバム”Sign “o” The Times”は、ライブ収録の1曲を除き、女性ヴォーカルとサックス以外は、ほとんどすべての楽器をプリンスが演奏/プログラミングしている。そうだよな。作曲できて必要な全ての楽器が自分で演奏できれば、いろいろな説明の手間もかからない、演奏技術があれば、頭の中でイメージしている音を完全に近いかたちで具現化できる。
 それでいいものができるかどうかは別にして、彼はそういうことが商業レベルでできるアーティストなのだ。”Purple Rain”、や”Around The World In A Day”も、実質は彼がほとんどの音を作り上げていたらしい。クレジットには”Composed, Performed, Produced by Princeの文字が印刷されている。盤に詰まっている音のすべてをコントロールして作り上げる男。究極のワンマン。その姿勢に、強く惹かれた。

 1986年、彼が主演の2作目の映画”Under The Cherry Moon”が封切られた。この作品は多方面で散々にけなされたようだ。実際、彼のファン以外のひとがこの映画をみてもちょっとキツいと思われる出来である。ギャグはスベるし、キャラクターにも共感できない。
 天才でも不得意な分野はあるのだなあと、ごくごく当たり前なことを思ったのだった。”Purple Rain”の演技も大したことはなかったが、あれは半分以上普段の姿だと思われるのでそれほど気にならない。
 映画のサントラに当たるアルバム”Parade”は、(映画の出来に反比例して)最高のアルバムで、シングルB面のアルバム未収録曲2曲と合わせてまったく完璧なものだ。(この2曲は映画でも使われているのに、アルバムには未収録である。映画のサントラとして捉えず、やはり一枚の独立したアルバムと捉えるべきだろう。)しかし、”Kiss”のPVはいつ見ても笑える。
 “Parade”の最後に”Sometimes It Snows in April”という曲が収録されている。映画の主人公クリストファー・トレイシーが死ぬ場面に流れる曲で、その死を悼む曲である。


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 まったく、なんで4月に逝ってしまったんだろうね。これを書いているあいだ、まだこの曲は聴けないでいる。