(XはXであり私の中ではXJAPANではないのだ)

 

館山ファミリーパークがクローズするそうな。

 

あれは1989年。地元館山では既に有名だったXが、満を辞してSONYから

メジャーデビューする寸前の3月25日のことだった。
ファミリーパークで凱旋公演をした時の話。

当時私は館山に住んでいた。高校2年の春休みである。

訳あって親と離れて暮らすことになり、受験生になる覚悟も何もなく、

音楽活動にどっぷり浸れることの喜びに胸躍らせていた。

前年の夏、人生初の「レコーディング」という作業を経験し、

ドラマーとしての自分の可能性にワクワクしていた時期でもあったのだ。

まずそのレコーディングの話からしよう。

 

我が母校の文化祭は、受験生に配慮して(?)受験勉強本番の秋ではなく

6月に行われていた。

1988年、ギター部に所属していた私は、先輩に誘われるがままに

THE ALFEEとモトリー・クルーを一緒にやるバンドにドラマーとして加入した。

文化祭1回きりの即席バンドだが、コピーはちゃんとやった。

 

さて、当時館山にはリハスタと呼べるような場所が1つ

(本当にひと部屋)しかなかった。

楽器店のレンタル機材の倉庫も兼ねていたその部屋は、紙の卵パックの

ようなもので遮音されていたが、それらが貼られていない壁には

既に"YOSHIKI"とかHide"とか落書きがされていた。

文化祭も近づいたある日我らがコピバンが練習していると、

まだ終了時間でもないのにスタジオのドアが開き、目つきの悪い高校生数人が

ズカズカと入ってきた。

私はそいつらを知っていた。前の年の冬、市民センターで行われた

楽器店主催のアマチュアバンドコンテストでひときわ異彩を放っていた

パンクバンドのやつらだ。

出演者の大半がBoowyやらなにやらのコピバンであったが、彼らは

オリジナルのパンクナンバーを演奏した。

嘘か本当かは知らないが、ヴォーカルは病院を抜け出してきたとかで、

パジャマ姿でステージに立ったのだ。

当時パンクは好みでなかったが、「あ、ホンモノっぽい」と

不覚にも思ってしまった。

ちなみにそのコンテストで私は聖飢魔IIのコピバンでドラムを叩いた。

もちろん「蝋人形の館」も演奏した。

 

件のバンドのヴォーカリストが、私に言う。

「レコードを出すから、レコーディングで叩いてくれ」

彼のことは知っていた。同じ高校のイッコ上で、昼休みになると

校舎と校舎をつなぐ通路のベンチで昼寝をしているやつだ。

Dung(ダン)と呼ばれているらしい。

音楽の話どころか、普通の会話もしたことがなかった筈だ。

どううわけで私に白羽の矢が立ったのかわわからないが、

とにかくその話を請けることにした。

当時の私は、音楽を聴き、楽曲を演奏するのと同じくらいに、「レコーディング」

というものに興味を持っていて、進路についてはそっちの道に進もうとしていたのである。

何より、自分のドラムのウデが認められた気がして有頂天であった。

打ち解けてみるとDungは面倒見もよく、パンクをファッションだけでなく

多少前のめりであるがスピリットから語る硬派な男だった。

だが、「俺には敵か手下しかいない」と言い放つ男でもあった。

 

館山にひとつしかないリハスタでレコーディングのための練習が続く。

ギタリストはDungと同い年のSG弾き。朗らかなひとだ。

ベースのほうは私と同い年で、ガラの悪いやつがゆく高校に通っていたが、

今で言うイケメンだった。スタジオにはもうひとり、コンテストの時に演奏していた

ベーシストがアドバイザーみたいな形で顔を出していたが、なぜ彼がレコーディングで

弾かないのか、事情は忘れてしまった。

 

夏休み。内房線でいざ東京へ。大塚ぺんたでのレコーディングはあっけなく終わった。

実際はリズム録りが押してしまい、歌はほぼほぼワンテイクしか録れなかったらしい。

(俺なぜか歌録りのとき先に帰らされたんだよな。。)

なんとか4曲と、イントロのSE用音源を録音した。

一応お断りするが、CDを作ったのではない。アナログのドーナツ盤である。

いざプレスしようとした際、ドーナツ盤の収録時間に4曲は入りきらず、

3曲入りのレコードとしてリリース、というかたちになった。

秋口にようやく、できあがったヴィニールを手にすることができた。

雇われミュージシャンとはいえ、自分の音がカタチになったのは嬉しいものだ。

クレジットにちゃんと Akihi Saitou と書いてある。

当時館山ではXのインディーズのシングル「オルガスム」がまだまだ出回っており、

私も持っていたが、それと並べて眺めて悦に入っていた。

Dungは出来上がったレコードを進路指導の先生に見せ、「プロになる」とタンカを

切ったらしい。

 

さてDungのバンド"The Mafia"は、レコードを売るために狭い館山の様々な場所で

ライブを行なった。だいたいが〇〇ホールとか公民館の類で、主催者が機材を借り、

設営からチケトのモギりまで自分たちが行うのだ。

そして私はそのまま"The Mafia"のドラマーにおさまることになった。

ギタリスト氏は受験勉強に忙しいらしく、後任を私と同い年の

ソネイッキチくんというレスポール弾きに譲った。

ベーシストもイケメンからアドバイザー氏に交代しており、新たなメンツで

ライブの経験を積んだ。

 

The Mafiaは高校生としてはそれなりの数のライブをこなし、The Mods、

スタークラブのカバー曲やDungのオリジナル曲も増え、南房総では

ちょっとは知られるバンドになっていた。

 

そして1989年が明け、3月、Dungも東京に出てゆくこととなった。

ちょうどその頃、当時知名度が急上昇していた館山出身のバンド"X"が、

いよいよCBS SONYからメジャーデビュー。館山ファミリーパークで凱旋ライブを行うらしい。

その前座に、The Mafiaが抜擢されたのだ。

降って湧いたような話だったが、Dungは当然のような顔をしていた。

もしかしたらつてを辿って売り込んだのかもしれない。

 

とにかく、1989年3月25日、The MafiaはXのオープニングアクトとしてステージに立った。

が、そこに私はいなかった。

 

Q : 誰がステージにいたか

A : 当時よく対バンしていたバンドのかた。私のイッコ上。

Q : 私は何処にいたか

A : ステージ下、最前列の客を押さえる柵の前

 

後にDungから聞いた話。卒業コンサート!という意味合いであるらしく、

同年に卒業してゆくドラマー氏が急遽私の代わりに叩くことになったらしい。

雇われドラマーだけど、事前に何も言われないと理不尽だと思うよなー

だけどギターはイッキチだったんだよ。ギターも卒業生にしろよ。

 

で、私はなぜかアルバイトに回されたのだ。

会場は、ファミリーパークの野外特設ステージ。

当時既に熱狂的なファンを持つXである。ステージと客席スペースを遮る柵はあるが、

乙女の強力な突っ張りにはひょっとして耐えられないかもしれない。

その柵を反対側から支えて突破できないように支えるバイトである。

ステージに背を向けて柵を支えるため、ステージは振り向かないと見えない格好だ。

 

"The Mafia"はよくやったと思う。Xのステージセットの前にドラムセットと

アンプを並べた狭いスペースながらも、精一杯のアクションを決めていた。

終盤、Dungは例のレコードを客席にばら撒いた。

客の受けも割と良かったと思う。

 

 

そして、X登場。幅10メートルほどのステージの前に、柵。

そこに張り付く男子数名。ほぼ真ん中に私。

"World Anthem"でXのメンバーが登場し、1曲目"Blue Blood"(たぶん)。

 

圧!!

 

ナメていた。乙女の圧を。Xはすごい人気だったのだ。

これは手を抜けない。抜いたらやられる。体重かけて支えなければ。

演奏中我々が立ち上がるとステージが見えなくなるので、姿勢は中腰になる。

立って押さえるより力が入れくい。

 

ところで、柵はだいたい胸の高さなわけだ。

柵の上の部分を握って押さえていると、そこに最前列の乙女の胸が

 

 

"Endless Rain"のようなナンバーではさすがに圧も弱まる。

スタッフと思しきひとが我々のところにやってきた。

 

スタッフ「次の曲、花火出ますんで」

我々「え?」

TOSHI「くれないだー!」

 

紅だ。

火の粉が降ってきたよ。なぐさめるやつはもういないんだよ。

 

気絶したわけではないが、そこから記憶は日当を受け取るまで飛ぶ。

というか、その後バンドのメンバーと話したとか打ち上げに行ったとか

一切覚えていない。

その日以来、館山に行ってもファミリーパークには行ったことはなかった。

 

たとえなくなってしまったとしても、私の中で館山ファミリーパークといえば

Xと理不尽さと乙女の圧と花火なのだ。