音楽で言う、「セッション」とは、複数のミュージシャンが一緒に演奏することを
指す。

リハーサルやライブと違って、その場で偶発的に生まれる演奏は非常に

スリリングで面白い。

既存の曲が思わぬ方向に変化したり、まったく新しい楽曲が生まれる瞬間に

立ち合うこともある。

演奏者自身が引いたこともないフレーズが飛び出す場合もある。

何が起こるか予測できない部分、そこがセッションの大きな魅力である。

 

セッションというと、もともと音楽的に即興が重要な部分を占める

ジャズというジャンルが思い浮かぶ。もちろんジャズのセッションも多いが、

今やアマチュアミュージシャンが参加できるセッションを開催するライブハウス

やライブバーが増えて、肩肘張らず気楽に参加できるポピュラーミュージックの

セッションも多くなった。

セッションホストにはプロの有名なミュージシャンが参加している場合もあり、

ある種「大人の遊び場」としての地位を確立した感がある。

子育てが一段落した、腕に覚えのあるアマチュアミュージシャンたちが、

初めて顔を合わせる人たちと、毎晩のようにどこかで音を出している。

 

 

さて、アマチュアミュージシャンが参加できるセッションには、おおまかに

以下のような種類に分けられると思う。

 

1. 演奏する曲をあらかじめ決めておき、各パート参加者を募る。開催日は、

課題曲を順番に演奏してゆく。ビートルズや松任谷由実、ハードロック全般や

昭和歌謡など

テーマが決められており、(まれに「なんでも」というセッションもあるが. . )

参加者が事前にしっかり練習することによって、その場で初めて顔を合わせる

演者との演奏でも、演奏の完成度は比較的高い。

 

ボーカル、ギター、キーボード、ベース、ドラムの主要パートはセッションホスト

がおり、集まらなかったパートなどはホストメンバーが補充する。

 

 

2.「ブルーズ」や「ファンク」、「ソウル/R&B」など、大きなテーマは

決まっているが、演奏する曲はその場で決め、演奏できるメンバーを募り、

演奏が成立する状態になったところで演奏する。

曲の構成、どの段階でどのパートがソロを取るか(言うまでもないが、ソロパートは

楽器演奏者の腕の見せ所、「すげー」と言ってもらえる場なのである)などを

演奏前に(演奏中にも)打ち合わせし、違いにアイコンタクトを取りながら

曲を進行させる。

 

ホストは、セッションで演奏されることの多い定番曲の簡単な構成譜を

用意しておく場合が多い。

演奏者も、演奏したい曲の譜面、歌詞などを持参し、演奏時に共演者に配る。

または、口頭で説明をする。

演奏者がどれだけ演奏曲を理解しているか、また知らなくても適応能力が

あるかないかで当然演奏のレベルは変わってくる。

 

 

 

3. 演奏する曲はその場で決めるが、既存の曲だけでなく、「シャッフルのリズム、

KeyはDでブルーズの12小節進行」とか、「♩=90くらいの16ビート、

Eのワンコードで」など、簡単な枠組みのみを決めて自由に演奏をする。

 

大袈裟に言うと、作曲をしながら演奏するわけで、セッションの中ではかなり

クリエイティブな部類に入るが、一つのコードや循環コードを基本にして

演奏されることが多く、ヘタをするとまとまりのない演奏がだらだらと

続くことにもなる。

 

言うまでもなく、1→3の順で偶発性は高くなる。

 

 

さて、ここまでが前置きである。

 

私がセッションホストバンドのピアニストとして参加している、

「Mick Jagarico & Joe Kids Presents新宿御苑ストーンズセッション」は、

"1"と"2"の中間くらいに分類されると思う。

 

・テーマ:ローリングストーンズの楽曲またはストーンズがカバーしたブルーズや

R&Bの曲、メンバーのソロ楽曲など

・セッションホストは、ボーカリスト、ギタリスト2名、ベーシスト、ドラマー、

ピアニストの6人である。

・ホストはストーンズのメジャーな曲の演奏には対応するが、マイナーな曲、

マニアックな曲は事前にリクエストをお願いしている。

・ギター、ベースは持参してください。

 

セッション当日の流れをおおまかに説明すると

 入場し入り口でチャージを支払う(演奏に参加するか否かで金額が違います)

プレーヤーは受付のノートに名前と演奏するパートを記入する。

(ドリンクもオーダーしましょう)

 

19:00スタート、まずホストバンドが1曲演奏する。

その後、ノートのリストのトップに書かれたプレーヤーから順に、演奏したい曲を

2曲ないし1曲(参加人数、演奏時間によって違う)を ホストバンドと共に演奏する。

演奏する曲は、呼び出されたプレーヤーが決めるが、演奏できる曲であれば、

まだ順番の来ていないプレーヤーでも演奏に参加できる。

その場合は、ホストメンバーと交代する。

 

順次、ノートのリストの順番で、休憩を挟んで終了時間になるまで演奏する。

 

一番多いプレーヤーはやはりギタリストで、次がヴォーカル(?)、ドラマー、

鍵盤とベースの順だろうか。

いろいろなタイプのプレーヤーがやってくるが、ここでひとつ参加者にお願いしたい。

 

 

曲のリクエストの際、どのバージョンで、ギタリストは誰役で演奏したいかを

教えてもらえるとホストは助かります。

 

 

ローリングストーンズのように、結成60年をゆうに越して今尚活動を続けている

バンドのレパートリーは、長い年月の間に次々と違う解釈が生まれてゆく。

メンバーチェンジもある。リクエストの際は、たとえば

「"Street Fighting Man"を"Get Ya-Ya-Yas Out"のバージョン

で演りましょう。ミック・テイラー役をやりたいです」のように伝えてもらえると、

非常に嬉しい。一応、ギタリストにはホストリーダーのJoe Kidsが都度確認します。

 

しかし

ローリングストーンズのナンバーは一筋縄ではいかない。同じツアーの中で

演奏されている楽曲でも構成が変わるナンバーがある。

間奏のリフは何回繰り返すのか。歌はどこから入るのか、2番に行く前の

ブレイクは1小節なのか、2小節なのか

などなどなど。

リクエストで指定がない限り、基本はレコーディングバージョンでの

演奏になるが、その場の感覚のぶれや記憶違いなどで、曲がとんでもない

方向に行ってしまう場合が多々ある。

 

そうなることを防ぐ手段の一つとして、一緒に演奏しているメンバーと

アイコンタクトを取ることがある。このまま引っ張るのか、

次にセクションに行くのか。

 

これは、ストーンズに限らず、セッションにおいては非常に重要なことである。

演奏しながらのコミュニケーションが取れているかいないか、それ以前に、

他のパートの音がちゃんと聞こえているかは非常に重要だ。

合図を出すのも有効だが、出すタイミングが遅すぎたりするとついていけない

メンバーがいたり、タイミングが早すぎたりすると、先走って次のセクションに

進んでしまう、などといったことが起こる。

 

合図やアイコンタクトなどは、ある程度セッションに慣れたひとでないと

難しいと思うので、まずはリクエストした曲とバージョンの構成を、

自身がしっかりと把握しておくことが大事だ。

 

セッションなのにそこまで必要??ホストがなんとかしろよ!

はい。なんとかします。

 

また、次々に合図を出して、指揮者のようにバンドを操ろうとするプレイヤーもいる。

これはこれで良い場合もあるのだが、「次はお前ソロ!」「次はお前!」みたいに

仕切りすぎると、他のプレイヤーから反感を買う場合もある。

 

ギターボーカルが1番を歌い終わってそのままギターソロを弾くとする。

16小節弾いたところでもう一人のギタリストにソロを振る。ここまでは良い。

だがもう一人のギタリストが8小節しか弾いていないのに次を歌い出してしまうと、

イラっとくるでしょ。

 

まあ、こういう「困ったちゃん」はそんなに多いわけではなく、良かれと

思ってやっている場合も多い。困ったちゃんといえば、ストーンズの

セッションではないが、自分でリクエストした曲が全く弾けない、

というギタリストもいたなあ。。

 

 

セッションに限ったことではないが、ライブハウスのステージに立って、

ハウスの機材を使用するからには基本的な使い方を知ったうえで使いたい。

真空管アンプのスタンバイスイッチの使い方、シールドケーブルはなるべく踏まない、

マイクをモニターに近づけない、ベーシストはD/Iからケーブルを抜く時の注意など。

 

細かいことになるが、ドラマーは、バラードなどで自分の演奏が休みのときは、

スナッピーをOFFにしておきたい。

 

 

. . .なんか、説教臭くなってしまった。

しかし、遊びにはルールが必要だし、ルールを守って遊ぶことで、

楽しさは広がってゆくのである。

 

御苑ストーンズセッションは、ホストバンドの演奏レベル、対応力の高さでは

他と群を抜いていると思うし、プレーヤーは心から楽しんでもらえるはず!

(あ、まだ"She's A Rainbow"のピアノ弾けない。。)

 

演奏した皆が楽しめるセッションにします!

 

(XはXであり私の中ではXJAPANではないのだ)

 

館山ファミリーパークがクローズするそうな。

 

あれは1989年。地元館山では既に有名だったXが、満を辞してSONYから

メジャーデビューする寸前の3月25日のことだった。
ファミリーパークで凱旋公演をした時の話。

当時私は館山に住んでいた。高校2年の春休みである。

訳あって親と離れて暮らすことになり、受験生になる覚悟も何もなく、

音楽活動にどっぷり浸れることの喜びに胸躍らせていた。

前年の夏、人生初の「レコーディング」という作業を経験し、

ドラマーとしての自分の可能性にワクワクしていた時期でもあったのだ。

まずそのレコーディングの話からしよう。

 

我が母校の文化祭は、受験生に配慮して(?)受験勉強本番の秋ではなく

6月に行われていた。

1988年、ギター部に所属していた私は、先輩に誘われるがままに

THE ALFEEとモトリー・クルーを一緒にやるバンドにドラマーとして加入した。

文化祭1回きりの即席バンドだが、コピーはちゃんとやった。

 

さて、当時館山にはリハスタと呼べるような場所が1つ

(本当にひと部屋)しかなかった。

楽器店のレンタル機材の倉庫も兼ねていたその部屋は、紙の卵パックの

ようなもので遮音されていたが、それらが貼られていない壁には

既に"YOSHIKI"とかHide"とか落書きがされていた。

文化祭も近づいたある日我らがコピバンが練習していると、

まだ終了時間でもないのにスタジオのドアが開き、目つきの悪い高校生数人が

ズカズカと入ってきた。

私はそいつらを知っていた。前の年の冬、市民センターで行われた

楽器店主催のアマチュアバンドコンテストでひときわ異彩を放っていた

パンクバンドのやつらだ。

出演者の大半がBoowyやらなにやらのコピバンであったが、彼らは

オリジナルのパンクナンバーを演奏した。

嘘か本当かは知らないが、ヴォーカルは病院を抜け出してきたとかで、

パジャマ姿でステージに立ったのだ。

当時パンクは好みでなかったが、「あ、ホンモノっぽい」と

不覚にも思ってしまった。

ちなみにそのコンテストで私は聖飢魔IIのコピバンでドラムを叩いた。

もちろん「蝋人形の館」も演奏した。

 

件のバンドのヴォーカリストが、私に言う。

「レコードを出すから、レコーディングで叩いてくれ」

彼のことは知っていた。同じ高校のイッコ上で、昼休みになると

校舎と校舎をつなぐ通路のベンチで昼寝をしているやつだ。

Dung(ダン)と呼ばれているらしい。

音楽の話どころか、普通の会話もしたことがなかった筈だ。

どううわけで私に白羽の矢が立ったのかわわからないが、

とにかくその話を請けることにした。

当時の私は、音楽を聴き、楽曲を演奏するのと同じくらいに、「レコーディング」

というものに興味を持っていて、進路についてはそっちの道に進もうとしていたのである。

何より、自分のドラムのウデが認められた気がして有頂天であった。

打ち解けてみるとDungは面倒見もよく、パンクをファッションだけでなく

多少前のめりであるがスピリットから語る硬派な男だった。

だが、「俺には敵か手下しかいない」と言い放つ男でもあった。

 

館山にひとつしかないリハスタでレコーディングのための練習が続く。

ギタリストはDungと同い年のSG弾き。朗らかなひとだ。

ベースのほうは私と同い年で、ガラの悪いやつがゆく高校に通っていたが、

今で言うイケメンだった。スタジオにはもうひとり、コンテストの時に演奏していた

ベーシストがアドバイザーみたいな形で顔を出していたが、なぜ彼がレコーディングで

弾かないのか、事情は忘れてしまった。

 

夏休み。内房線でいざ東京へ。大塚ぺんたでのレコーディングはあっけなく終わった。

実際はリズム録りが押してしまい、歌はほぼほぼワンテイクしか録れなかったらしい。

(俺なぜか歌録りのとき先に帰らされたんだよな。。)

なんとか4曲と、イントロのSE用音源を録音した。

一応お断りするが、CDを作ったのではない。アナログのドーナツ盤である。

いざプレスしようとした際、ドーナツ盤の収録時間に4曲は入りきらず、

3曲入りのレコードとしてリリース、というかたちになった。

秋口にようやく、できあがったヴィニールを手にすることができた。

雇われミュージシャンとはいえ、自分の音がカタチになったのは嬉しいものだ。

クレジットにちゃんと Akihi Saitou と書いてある。

当時館山ではXのインディーズのシングル「オルガスム」がまだまだ出回っており、

私も持っていたが、それと並べて眺めて悦に入っていた。

Dungは出来上がったレコードを進路指導の先生に見せ、「プロになる」とタンカを

切ったらしい。

 

さてDungのバンド"The Mafia"は、レコードを売るために狭い館山の様々な場所で

ライブを行なった。だいたいが〇〇ホールとか公民館の類で、主催者が機材を借り、

設営からチケトのモギりまで自分たちが行うのだ。

そして私はそのまま"The Mafia"のドラマーにおさまることになった。

ギタリスト氏は受験勉強に忙しいらしく、後任を私と同い年の

ソネイッキチくんというレスポール弾きに譲った。

ベーシストもイケメンからアドバイザー氏に交代しており、新たなメンツで

ライブの経験を積んだ。

 

The Mafiaは高校生としてはそれなりの数のライブをこなし、The Mods、

スタークラブのカバー曲やDungのオリジナル曲も増え、南房総では

ちょっとは知られるバンドになっていた。

 

そして1989年が明け、3月、Dungも東京に出てゆくこととなった。

ちょうどその頃、当時知名度が急上昇していた館山出身のバンド"X"が、

いよいよCBS SONYからメジャーデビュー。館山ファミリーパークで凱旋ライブを行うらしい。

その前座に、The Mafiaが抜擢されたのだ。

降って湧いたような話だったが、Dungは当然のような顔をしていた。

もしかしたらつてを辿って売り込んだのかもしれない。

 

とにかく、1989年3月25日、The MafiaはXのオープニングアクトとしてステージに立った。

が、そこに私はいなかった。

 

Q : 誰がステージにいたか

A : 当時よく対バンしていたバンドのかた。私のイッコ上。

Q : 私は何処にいたか

A : ステージ下、最前列の客を押さえる柵の前

 

後にDungから聞いた話。卒業コンサート!という意味合いであるらしく、

同年に卒業してゆくドラマー氏が急遽私の代わりに叩くことになったらしい。

雇われドラマーだけど、事前に何も言われないと理不尽だと思うよなー

だけどギターはイッキチだったんだよ。ギターも卒業生にしろよ。

 

で、私はなぜかアルバイトに回されたのだ。

会場は、ファミリーパークの野外特設ステージ。

当時既に熱狂的なファンを持つXである。ステージと客席スペースを遮る柵はあるが、

乙女の強力な突っ張りにはひょっとして耐えられないかもしれない。

その柵を反対側から支えて突破できないように支えるバイトである。

ステージに背を向けて柵を支えるため、ステージは振り向かないと見えない格好だ。

 

"The Mafia"はよくやったと思う。Xのステージセットの前にドラムセットと

アンプを並べた狭いスペースながらも、精一杯のアクションを決めていた。

終盤、Dungは例のレコードを客席にばら撒いた。

客の受けも割と良かったと思う。

 

 

そして、X登場。幅10メートルほどのステージの前に、柵。

そこに張り付く男子数名。ほぼ真ん中に私。

"World Anthem"でXのメンバーが登場し、1曲目"Blue Blood"(たぶん)。

 

圧!!

 

ナメていた。乙女の圧を。Xはすごい人気だったのだ。

これは手を抜けない。抜いたらやられる。体重かけて支えなければ。

演奏中我々が立ち上がるとステージが見えなくなるので、姿勢は中腰になる。

立って押さえるより力が入れくい。

 

ところで、柵はだいたい胸の高さなわけだ。

柵の上の部分を握って押さえていると、そこに最前列の乙女の胸が

 

 

"Endless Rain"のようなナンバーではさすがに圧も弱まる。

スタッフと思しきひとが我々のところにやってきた。

 

スタッフ「次の曲、花火出ますんで」

我々「え?」

TOSHI「くれないだー!」

 

紅だ。

火の粉が降ってきたよ。なぐさめるやつはもういないんだよ。

 

気絶したわけではないが、そこから記憶は日当を受け取るまで飛ぶ。

というか、その後バンドのメンバーと話したとか打ち上げに行ったとか

一切覚えていない。

その日以来、館山に行ってもファミリーパークには行ったことはなかった。

 

たとえなくなってしまったとしても、私の中で館山ファミリーパークといえば

Xと理不尽さと乙女の圧と花火なのだ。

 

ロックンロールの神さまが逝った。

 

ちょうど20年前の3月、20代の私は彼の姿を生ではじめて見たのであった。

当時の拙いレポを公開して私の追悼にしたいと思います。

 

-LONG LIVE ROCK'N ROLL!  1997.3.16. CHUCK BERRY IN AKASAKA-

 

ルイジアナからニューオリンズへ 
 初めてチャック ベリーの曲を聴いたのがはたしていつのことなのか、僕にはサッパリ思い出せない。本人の演奏によるオリジナルヴァージョンは、ということである。それだけ様々なアーティストが、影響を受けたアーティストの名前にチャックを挙げ、彼の曲を演奏しているのである。彼の名前を初めて知ったのは、確かブルース スプリングティーンのインタヴューの中でだったと思う。当時(1985年)僕はスプリングスティーンからロックの啓示を受けてロックをかじりはじめたばかりで、まだロックンロールワールドの右も左もわからなかったのだが、その僕の師とも言えるスプリングスティーンがさらに師と崇め奉るチャック ベリーなるおじさんとはどんなもんぞや?と、その瞬間僕の脳裏に刻みこまれたのである。 
 スプリングスティーンの次にはビートルズが僕の中に居座った。ビートルズの初期のころの曲をつらつら聴いていると、いやでもチャック ベリーにぶちあたる。そして、彼がロックンロールの登録商標、本家本元的な人物だということを知るのである。はー、いわゆるロックンロールのお父さんなんですね。そして、あの"バック トゥ ザ フューチャー"でマイケル J が演奏した"ジョニー B グッド"である。これは本腰入れてチェックしなければなるまい、と思い立った。ちょうどそのころTVコマーシャルでも彼の歌が流れていた。そこでベスト盤をレンタル屋で借りてきて、研究を始めたのである。そのあたりで(満を持して)僕の前に登場したのが、あのストーンズである。ここにもチャック ベリーを崇め奉る男がいた。その名はキース リチャーズ。

 

敬愛
 キースがチャック ベリーの映画の音楽監督を勤めたのは1986年のことだ。彼の60才の誕生日を記念して、様々なゲストが彼とともに彼の歌をうたう、というライヴを中心に、彼の半生を自ら語る記録映画である。タイトルは"ヘイル ヘイル ロックンロール"。"スクール デイズ"という曲の歌詞の一節だ。直接的にはこの映画がきっかけで、僕はキースと同様チャック ベリーを師匠と慕うことになる。  あまりにも有名な話だが、この映画の中で、キースがチャックにいびられるシーンがある。"キャロル"を演奏するシーンでチャック師匠がキースに、「ギターの弾きかたが違う」と注意する、というかネチネチ文句を言うのである。両方のファンとしては見ていて非常につらい。実際キースは間違えているのだが、自分だって曲の進行が毎回メチャメチャじゃないか!とキースの肩を持ちたくなる。チャック師匠、本当はとても嫌な奴らしい。(とキースは語る)だがキース、黙って耐えるのである。が、またこういうシーンもある。チャック師匠がカメラマンに向かって演奏の邪魔になると文句を言うのだが、それに対してキースが口をはさむ。
「あんたの映画なんだぞ、あんたが死ぬまで残るんだぞ」(ちょっとはカメラマンに気を使ったらんかい)。

チャック師匠それに答えて曰く

 

「俺様が死ぬか!」

 

 さすが師匠。
 そこまでサラっとそんなセリフが吐けるミュージシャンがいるだろうか。 
 こんなふうにこの映画にはいたるところにチャック ベリー本人への、またはロックンロールそのものへの(屈折した)愛情が生々しく感じられるのである。そしてライヴのフィナーレのシーン、チャック師匠がキースを改めて紹介するシーンで、キースは満面に笑みをたたえ、客に向かって一言、

 

"BYE BYE, BABY"!

 

 いままでの苦労が報われた瞬間。
このシーンは何度見ても涙が止まらない。

 

10年後  
 "ヘイル ヘイル ロックンロール"が公開されて10年が経った。そしてすでに70才を超えているロックの登録商標が来日するという。昨年の冬にこの話を耳にしたとき、にわかには信じられなかった。どうせキャンセルになるさ、という思いもあったが、そもそもまだ生きて現役でロックをプレイしているという事自体が信じられなかったのだ。そんなわけで、僕はギリギリまでチケットを買わなかった。それでもとうとう前日にチケットを買い、赤坂ブリッツに足を運んだ。

 オープニングアクトのクールスのステージを眺めていてもまだ今ひとつ実感が湧かなかった。ホントに今この瞬間、生きて、日本の、東京の、赤坂の、ブリッツの楽屋にいるのかよ?とかなんとか思いが錯綜しているうちにクールスのステージが終わった。とりあえず良い位置を確保、とアリーナをおしあいへしあい。
 

 位置が決まってボーっとしているうちにフラフラーっと神様が現われた。 
 

 やはりトシだと思ったのは彼の頭を見たからだった。もうリーゼントにはできまい。縮れた髪の毛の生え際は後退し、くろぐろと光っていた。そしてパイナップル柄のアロハシャツと、これだけは譲れないギブソン335。笑顔と白い歯。1曲目、何の前ぶれもなくは彼の「いつもの」ギターリフでなんとインストを演奏。ついに歌えなくなっちまったか!とハラハラする矢先に、"スクールデイズ"。さすがにガツンと来た。節回しは多少変わっているが、声は少なくとも10年前に引けはとらない。しかし、ギターの音がやけに小さい。本人がギターの方のヴォリュームをかなり絞っているためかあまり迫力がないのである。

やはり長年のロード生活で耳をやられたかと思っていると、2曲、3曲と進むうちに師匠、やたらとヴォリュームやトーンをいじって音にこだわっている。時には演奏そっちのけで音作りに没頭している場面もあった。師匠、70になっても耳は達者らしいとわかってホっとしました。


 ロックンロール、ブルースを織り混ぜて快調にステージはすすむ。多分日によって曲の進行はまちまちなのであろう、コードチェンジをバックのメンバーがあわててついていくという曲も多かった。

 

 

"I'M AN ENTERTAINER" 

 今回、師匠はあくまで気さくだった。笑顔を絶やさず、MCでも笑いを誘い、ステージは終始和やかな雰囲気に包まれていた。ギターには往年のキレはなかったが、それでも客は喜んでいた。しかし、"キャロル"から"リトルクイーニー"をメドレーにするという、だれでも思いつきそうなアレンジを実際にやったとき、師匠自らしつこくキースに注意したあのフレーズは姿を消していたのであった。(あったのかもしれないが、ブレイクのタイミングがうまく取れなかったのだろうか?)師匠、キースは草葉の影で泣いてますよ。

 しかし、曲の終わりの決めセリフ"MEANWHILE, I'M STILL THINKIN'"はなぜか鳥肌が立つほどカッコ良かった。ガッカリしている矢先に感動のストレートパンチ、こんなふうに、心配と喜びと落胆と感動が複雑にからみあいながら、尚もステージは続く。僕のエモーションは擦り切れそうだ。"ロール オーヴァー ベートーベン" "トゥ マッチ モンキー ビジネス" "ロックンロール ミュージック" "メンフィス テネシー"... 飽きない。たかがスリーコードと言うが、3つか4つのコードでこれほど多彩な世界を描けるものなのだろうか。もちろんそれだけではない。後半になっても師匠は汗をふきつつ動く動く。ときにはピアノを弾いたり、ステージの端でコール&レスポンスをきめるなど、エネルギッシュに動き回る。だが、伝家の宝刀ダックウォークは最後まで見せない。そしてついにステージ終盤、口をすぼめながらのダックウォークがようやく出たときの客の歓声といったら!
 師匠のこの戦略を見たとき、この人はまさに芸人だ、と思った。新しいものなど必要ない、ただひたすら自己の芸に磨きをかけてゆくひたむきさが今回の来日公演の真髄なのだ。(新しいものなんかもうトシだし作れない、という話もあるが)そこには自分がいて自分の芸がある。そして、その芸におしみない拍手をする客がいる。エンターテイナーとしての潔さを僕はまざまざと見せつけられた気がする。

 

GO JOHNNY GO! 
 そしてジョニー B グッドが始まった。ラストナンバーはこれしかない。誰もが思うだろう。彼はこの曲と共に天国に召されると。彼の墓石にはこう刻まれる。

"HE ALWAYS PLAYS GUITAR JUST LIKE RINGIN' A BELL" GO ! GO ! GO ! CHUCK GO ! GO !

追悼かまやつひろしさん

ということでかまやつさんの曲を歌ってみたくなっていろいろリサーチしていた。

 

しかし、いい歌が多い。演奏もハンパではない。

 

"バン・バン・バン"

"どうにかなるさ". . .この2曲は大昔バンドで演奏したな

"のんびりいくさ"

"我が良き友よ"

"ゴロワーズを吸ったことがあるかい"

井上順の"なんとなくなんとなく"

ときて、そうだ、はじめ人間ギャートズの歌もかまやつさんだったな、と思ってYou Tubeを検索。

 

何十年ぶりに聴く"やつらの足音のバラード"

歌が入った瞬間に涙がブワっと溢れて。

 

別に曲に絡む思い出があるわけではないしアニメにもそんなに思い入れはない。

 

なのになぜ

 

歌詞とメロディの完璧な合致というか. . .

おそろしく単純な言葉でおそろしく壮大な情景を語る歌詞(原作者の園山俊二作詞)と、飄々としてせつないメロディ。

冒頭の「なんにもない〜」でジワっときて、「暗い宇宙に〜」のAmで涙ダー。

 

聴き込むうちに、遠い過去に同じことをしていたのを思い出した。

小学生だった俺も、この歌を聴いて涙を流していたのだった。

 

子供なりの感性で、シンプルな歌詞の中に、肌がヒリヒリするように切実な「寂しさ」「希望」「安心」「期待」を感じ取ったのだと思う。

 

「なんにもない」ところに

「星がひとつ 暗い宇宙に生まれた」のが、本当に嬉しかった。

「やがて草が生え 樹が生え」たのが嬉しかった。

とにかく、心を揺さぶられたのだ。

 

なぜだ。

 

 

結局昨日のセッションでは、"我が良き友よ"と"どうにかなるさ"を歌わせてもらった。

ところが、"やつらの足音のバラード"を歌いたいというひとがその場にいたのだ。

ドキっとした。

とまどいながら演奏した。泣くことはなかったが、嬉しかった。

 

ひごちゃん、女性のお客様、どうもありがとう。

なまちゃん、YAYAさん(いつも)ありがとう。

 
 2016年4月21日、現人神が本物の神になってしまった。

 プリンス・ロジャー・ネルソン、ミネアポリスに所有のスタジオで死去。57歳。

 ひどく、ひどく悲しい。自分が音楽活動をするにあたって、一番影響を受けたといっても言い過ぎではないアーティスト。どんなに頑張っても絶対に手の届かない、無尽蔵の才能を持つ異次元の天才。斜に構えたカリスマ。基準となる絶対の存在。
 とにかく今は涙を流すだけ。死んだなんてとても受け入れられない。でも、何か書いておきたい。自分の心の中の彼の残像を書き留めておきたい。彼のことを知ってからの32年間を。

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 彼を知ったのは13歳のころ、アルバム”Purple Rain”の大ヒットの最中のことだった。当時洋楽を聴き始めたばかりの私は、毎日浴びるようにラジオを聴いていた。まだレンタルレコードのシステムも黎明期で、当時住んでいた田舎ではそういった店がなかったので、週間FMやFMステーションなどのラジオ雑誌を買いあさり、ラジオのエアチェックに明け暮れる日々だった。
 彼の曲はラジオやテレビから自然に耳に入ってきていたが、本格的にハマるようになったのは、同じクラスに熱狂的なファンがいて、押し付けるように”Purple Rain”と”1999”のカセットを渡されたからだ。
 聴いて一発でのめりこんだ、という訳ではない。ただ、当時流行のブリティッシュ・インベイジョンの主流アーティストであるデュラン・デュランやカルチャー・クラブのような、ソフィスティケイトされたアーティストにはないワイルドさ、危険さを感じたのだ。「これはヤバい音楽だな」と。
 ラジオとウォークマン(のバッタもの)を手に入れ、アニソンからベストテンを通ってようやくデュランやハワード・ジョーンズなどを聴き始めた当時のウブな中学生の私は、彼の歌、叫びを聴いた瞬間に、今までに経験したことのない猥雑な(当時そんな言葉は知らない)雰囲気を肌で感じ、もっと聴きたい、もっと感じたいと思ってしまったのだ。
 当時は歌詞をじっくり読むことはなかったのだが、とにかくサウンドが独特でカッコ良い。“When Doves Cry”の、ベースまでも削ぎ落とした最低限の音で奏でられる切なさ、”Let’s Go Crazy”の狂騒、”I Would Die 4 U”~”Baby I’m A Star”の多幸感. . . 
 これらの楽曲のライブ演奏を見ると、また違った興奮に包まれる。現在オフィシャルでは見ることのできない映像ソフト”PRINCE & THE REVOLUTION LIVE”は、2時間まるごとの至福だ。極上の楽曲をさらに磨き上げ、バンドを自分の手足のごとくコントロールし、自身の存在をこれでもかと見せつける。
 この作品がDVD化されていないことは本当に残念だが、演奏とは関係ない部分の音のクオリティに問題があるので、再リリースできないのだろう。

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 “Purple Rain”は世界中でヒットし、彼の知名度とセールスを一気に押し上げた。映画も作られ、アルバムと供に大ヒットを記録した。田舎の中坊が映画館で鑑賞するにはちょっとはばかられる内容の映画だったので、公開当時は見ることができなかったのだが、運良く年上の従兄がVHSのテープを持っていた。
 この映画で彼のビジュアルを改めて目に焼き付けるとともに、ライブハウスという場所の雰囲気と、バンド対バンド、メンバー同士の確執など、後にものすごく身近なこととして散々経験するようなことを覚えたのだった。

 ところで、”Purple Rain”のアルバムと映画は広く一般に受け入れられたが、彼はその見た目や発言(そもそも当時はインタビュー嫌いで考えていることが伝わりにくい)、突飛な行動などから、ファンを選ぶアーティストだ。とにかく濃いルックス、特徴的なしぐさ、誇張されるナルシシズムとエゴイズム。好きな人は好きだが、嫌いなひとは徹底的に嫌う。そんなアーティストである。
 そんな訳で、あまりおおっぴらに彼のファンとは言いにくく、たまに同じく好きなひとが現れるとそれはもう嬉しかったものだ。

 映画”Purple Rain”が日本で公開された年、ニューアルバムがリリースされた。Purple Rainの大ヒットがなかった事のように、全く別のテイストを持つ”Around The World In A Day”というアルバムは、リスナーのド肝を抜いた。このアルバム以降、音楽やビジュアルのスタイルを次々に変えながらプリンスはヒットを連発してゆくのである。

 1984年 : Purple Rain
 1985年 : Around The World In A Day
 1986年 : Parade
 1987年 : Sign “o” The Times
 1988年 : Lovesexy
 1989年 : Batman

 1982年のアルバム”1999”からのプリンスの最初にして最高の黄金期は、私の思春期とぴったり重なる。この多感な時期に、彼の音楽にリアルタイムで接することができたのは、本当に幸せだったと言うしかない。この時期の柔軟な感覚だからこそ、めまぐるしいスタイルの変化を受け入れ、その偉業を掘り下げてゆくことが出来たのだと思う。また今のように情報過多でなく、周囲の洋楽を聴く人種も限られていたため、あまり目移りせずに聴き続けられたのも幸いしたのかもしれない。

 プリンスは、基本的に多作なひとである。
 この時期はほぼ年に一枚、非常に高いクオリティのアルバムを作りヒットを飛ばす傍ら、ザ・タイムやアポロニア6などをプロデュースし、「ミネアポリス・サウンド」を確立、そのほかにもシーナ・イーストンやバングルズなどに楽曲を提供、パープルレインツアーに帯同したシーラ・Eはグラミー賞にノミネートされた。
 これらの音楽を、喫驚しながらも次々と芋づる式に聴きながら、彼自身の音楽ももっともっと聴きたいと思った私は、アルバムでは飽き足らずシングルのB面も細かくチェックするようになった。当時リリースされていたシングルのB面曲のほとんどがアルバムには未収録で、ラジオでもなかなかオンエアされないため、シングル盤を手に入れないと聞けない。どうにか聴きたいので、限られた小遣いをやりくりし、プリンス好きの友人を抱き込み、どっちがどのシングルを買うかを分担していた。
 この時代のB面曲には”God”、”Erotic City”(シーラ E.とのデュエット)、”She’s Always In My Hair”など、クオリティが高いものが多い。

 脱線するが、80年代に流行した音楽フォーマットに、12インチシングルというものがある。
 当時のアナログ盤は、アルバムが12インチ/およそ30センチのサイズで、33 1/3 RPM(1分間に33と1/3回転)、シングルが7インチ/およそ17センチのサイズで45RPMだが、12インチのディスクサイズで45RPMの「12インチシングル」というフォーマットが存在した。70年代後半のディスコブームで、シングル曲のより長いバージョンが必要とされたため、収録時間の長い12インチのディスクを45回転で回し、シングルのより長いバージョンに対応したのである。音質もそのほうが良いらしい。
 80年代当時、ヒットシングルは大抵ロングバージョンが数タイプ作られ、12インチシングルとして売られていた。
 さてこのロングバージョン、もともとレコーディングされた素材をもとに、リミックス、編集したり、新たな楽器を足したり(大抵はパーカッション)して演奏時間を倍~3倍くらいに作るのが主流で、このロングバージョンのリミックスをするエンジニア、プロデューサーも、アーティスト並みの知名度を持っていた。
 アーサー・ベイカーやボブ・クリアマウンテン、ジェリービーン・ジョンソンなど、シングルのタイトルに、「誰々ミックス」などとクレジットされる時代である。80年代半ば、個人的にはアーティストのほかにこういった名前を覚え、漠然とこんな仕事ができたらと思い始めた頃でもある。
 もちろん中には、ただリズムだけの部分を引き延ばしたり、サビのフレーズをサンプラーに取り込んで連呼させるといった退屈なものも存在した。

 彼は、というと、もちろん12インチシングルはリリースしていた。ただ、当時の彼の楽曲の多くは、もともとがロングバージョン並みの長さを持っていた。アルバム”1999”は、個々の楽曲は7~10分の長尺のまま収録され、結果的に2枚組みでリリースされた。続く”Purple Rain”からの12シングルは、”When Doves Cry”、Purple Rain”がアルバムそのままの(編集されていない長尺の)バージョン、”Let’s Go Crazy”が、映画で演奏されている、曲の中盤がジャム的展開になっているいかにもライブなバージョン、”I Would Die 4 U”が、実際のツアーバンド編成によるライブのリハーサルバージョン。
 水増しがないのである。
 更に”Around The World In A Day”、”Parade”からの12インチシングルは、最初の部分はもともとのシングルバージョンとほとんど変わらず、シングルでフェイドアウトされてゆく部分がフェイドアウトされず、延々演奏が続く。“America”という曲に至っては回転数も33 1/3RPM仕様になっており、フェイドアウト以降が延々15分以上も続くのである。B面の楽曲も同様なので、これらはもともとのサイズが長く、7インチの通常シングルおよびアルバムはそれ用に編集されているのである。
 水増しがなく、アルバムバージョンはむしろギュっと濃縮されているのだ。こういう部分にも、他のアーティストとは違う魅力を感じてしまうのだ。


 彼は、ギターもピアノもベースもドラムも演奏する、いわゆるマルチプレイヤーである。私的には、作曲をするひとはそういうスタイルが自然だと思っていた。いろいろな楽器が演奏できれば、いろいろな表現ができる。私自身、彼の音楽と出会うのとほぼ時を同じくして、様々な楽器に興味を持ち、演奏することを覚えた。ひとつの楽器の修行を続けるのではなく、ギター、ベース、キーボード、ドラムなどいろいろな楽器でいろいろな表現をしようと思ったのは、彼の影響によるところが大きい。

 彼には当時、ザ・レボリューションと呼ばれるバックバンドがいた。映画”Purple Rain”でも大フィーチャーされるそのバンドは、ウエンディ&リサの女性プレーヤーを看板にライブでのバックを固めていた。
 このバンドは”Purple Rain”以降、アルバムが出るたびにメンバーチェンジ/増員をするのだが、1986年の初来日のステージを最後に解散してしまう。当時のマスコミは「発展的解散」という言い方をしていたが、実質的には全員解雇である。彼がすべてを仕切り、まとめ上げ、指示を出し、方向性を決めてゆく、彼が絶対君主として君臨するバンドだったわけだ。
 レボリューション解散後に発表されたアルバム”Sign “o” The Times”は、ライブ収録の1曲を除き、女性ヴォーカルとサックス以外は、ほとんどすべての楽器をプリンスが演奏/プログラミングしている。そうだよな。作曲できて必要な全ての楽器が自分で演奏できれば、いろいろな説明の手間もかからない、演奏技術があれば、頭の中でイメージしている音を完全に近いかたちで具現化できる。
 それでいいものができるかどうかは別にして、彼はそういうことが商業レベルでできるアーティストなのだ。”Purple Rain”、や”Around The World In A Day”も、実質は彼がほとんどの音を作り上げていたらしい。クレジットには”Composed, Performed, Produced by Princeの文字が印刷されている。盤に詰まっている音のすべてをコントロールして作り上げる男。究極のワンマン。その姿勢に、強く惹かれた。

 1986年、彼が主演の2作目の映画”Under The Cherry Moon”が封切られた。この作品は多方面で散々にけなされたようだ。実際、彼のファン以外のひとがこの映画をみてもちょっとキツいと思われる出来である。ギャグはスベるし、キャラクターにも共感できない。
 天才でも不得意な分野はあるのだなあと、ごくごく当たり前なことを思ったのだった。”Purple Rain”の演技も大したことはなかったが、あれは半分以上普段の姿だと思われるのでそれほど気にならない。
 映画のサントラに当たるアルバム”Parade”は、(映画の出来に反比例して)最高のアルバムで、シングルB面のアルバム未収録曲2曲と合わせてまったく完璧なものだ。(この2曲は映画でも使われているのに、アルバムには未収録である。映画のサントラとして捉えず、やはり一枚の独立したアルバムと捉えるべきだろう。)しかし、”Kiss”のPVはいつ見ても笑える。
 “Parade”の最後に”Sometimes It Snows in April”という曲が収録されている。映画の主人公クリストファー・トレイシーが死ぬ場面に流れる曲で、その死を悼む曲である。


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 まったく、なんで4月に逝ってしまったんだろうね。これを書いているあいだ、まだこの曲は聴けないでいる。

 一昨日はFlying Walrusのライヴ。台風18号「マニー」がそろそろやってこようか、というところ。
 幸い家を出る時はそれほどの雨でもなく、帰りもほとんど降っていなかった。
 今日は、RCサクセションのカバーバンド”天極”と、山梨より参戦のストリートスライダーズのカバーバンド”Sister Morphine”の「国産2大バンドカバー対決!」の前座をやらせてもらうのだ。場所はもちろん吉祥寺Black & Blue。
 天極さん。いわずと知れた日本一のRCサクセションのカバーバンド。タイマーズのドラマー章二丸さんひとりでも超強力だが、ストリートスライダーズのドラマーZUZUさんが加わってから更に重厚になったビートに、舞台巧者のベーシスト宇野さんのウネりのあるラインが加わって醸し出す最強のリズム。それに乗って縦横に跳ねるクワさんの太い音のレスポール、確信犯的にジェフ・ベックしているリッキーさんのストラトがアンサンブルをガッチリと構築、その上で結婚式の司会進行役のようなモミさんのMCが冴える。そんなバンドです。
 あ、歌もすごいよ。
 Sister Morphineさん。俺は初めて見ます。渋い佇まいで、これまたスライダースの渋い曲を演奏する。あんまり渋すぎて、ZUZUさんも「これ何て曲だっけ?」と言い出す始末。おおわらい。
 さて、我々は今回はTOPでした。逆リハなので、我々のリハーサル順は最後です。ギターのカトキングが仕事の都合で来られないので、3人でリハ。とそこで急遽我々のナンバーを1曲ZUZUさんが叩くことに!
 以前も何度か競演して頂いたことはあるのですが、その時より、我々のナンバー「ピアノ」を気に入って頂いたらしく、リハで我々が演奏すると、「叩かせて」と言ってくださいました。恐縮です。嬉しいです。
 「ピアノ」ですが、何年か前より、ある企業のプロモーションビデオに使用されています。先日、東京ビッグサイトである展示会が行われ、件の企業も出展していたのですが、ブースでプロモーションビデオをずっと流していたそうです。そうしたら、会社の内容とともに、曲について問い合わせてくれた来場者さんがいたらしいです。特に歌詞を褒めて頂いたとのこと。この話を聞いた時、本当に嬉しかった。褒めてくださった来場者のかたはもちろん、その話を俺にしてくれたその企業の社長に対しても、感謝でいっぱいです。
 この曲をレコーディングした時も、当時一緒にやっていたギタリストに、「よく作ったな、この曲」と言われて、嬉しかったものです。
 脱線しました。
 そんなこんなで急遽セットリストを変更、新曲”Restless”からライヴはスタート。まだ充分にしみ込んでいなかったため、見事にコケました。この曲は今のメンバーそれぞれが出したアイデアの塊です。アレンジ的なひねりが多いわりにメロディがちょっと弱いのかなという気がしないでもないですが、エージ、たけだ、カトキング、俺で練り上げた初めての曲ですね。
 Love、不埒と続いて、毎回ほぼ必ず1曲は演奏しているカバー曲のコーナー。今回はスライダーズとRCの対決ということで、RCのギタリストの仲井戸麗一と、スライダーズのギタリスト蘭丸が組んだユニット”麗蘭”のナンバーを演らせてもらいました。結構ギリに演奏が決まった曲ですが、意外と上手くできたかな。しかしMCはカミまくりで(いつものことですが)反省。ゆっくり喋ろうとしてるんですけどね。
 後半は”エンジン”でぶっとばします。定番の”Cold Beer & Crazy Beat”で煽り、いよいよZUZUさん登場!我々のステージに出演することで、結果的に今日出演の3バンドで叩いたZUZUさん。
 ZUZUさんのドラミングは、パワフルであるとともにとても正確です。ため過ぎず、突っ込み過ぎず、歌のノリのいいタイミングでバックビートを打ち出してくれます。ここぞ!という時のアクセントは、歌い続ける勇気と安心をくれます。
 われらがエージくんのドラムとの絡みを冷静に聞けるほど余裕はなかったのですが、パワフル&スリリングなビートでお届けできたと思います。

$Cold Beer & Crazy Beat!~ FLYING WALRUS AKIHIのBlog-fw&zuzu
Flying Walrus & ZuZu

 SIster Morphineさん。冒頭にも書きましたが、選曲が渋い!俺もスライダーズは全曲知ってる訳ではないので、追いきれない曲もありました。個人的のツボだったのは、”Dancin' Doll”と”チャンドラー”ですね。Walrusのたけだっちが参加しているスライダーズのカバーバンド「ストレートサイダーズ」でも、この2曲はやってなかったんじゃないかな?やって欲しいものです。
 Vo/&のジンさんはホンモノのテープエコーを使ってました。こういうバンドにはアナログなエフェクターが良く似合う。
 後半はホンモノのスライダーズ、ZUZUさんが参加して演奏。”Tokyo Junk”良かった!メンバーの皆さんは、嬉しいとともに、かなり緊張しただろうな. . .

 さて天極さん。既に会場は満員。しょっぱなから気合いが入る。はいりすぎてたたらを踏むひと約1名。このへんは俺も冷静に見てないんで、細かいことはあまり覚えてない。トランジスタ・ラジオや、君が僕を知ってる、スローバラードなど、わりと王道の選曲でグイグイ見せる。
 章二丸さんのドラムを聞いていつも感じるのが、「気持ち」曲の気持ち、歌い手の気持ち、演奏者の気持ち。それぞれの持ってる気持ちを、そっと、あるいはあからさまに後押しする。後押しされた側は、気持ちが増幅されて、どんどんその気持ちを前に出す。とても気持ちよい相乗効果を生み出すドラムだ。ほんと、魔法。そして、笑顔。視線で通じる、「気持ち」。経験を積んだプロのドラマーだから、と言ってしまったらミもフタもないが、ドラマーとはこうあるべし、ってなドラマーなんですよ。
 俺も幸いにして何度か章二丸さんと演奏する機会に恵まれましたが、「気持ち」には「気持ち」で対抗しないと萎縮してしまうんですね。セッションの時でも、いつも章二丸さんと演奏する時は、襟を正す思いで歌ったりギター弾いてます。

 ライブは、”Jump”で終了。納得の、安心のステージでした。欲を言えば、RCもスライダーズも、あれも聞きたいこれも聞きたいとあるんですが、言っていたらきりがない。満足のイベントでした。

 終演後、Par no Barセッションにてウクレレの弾き語りでおなじみのミズヨさんDJによるラジオ番組、”1/48”が流されました。なんと、全面的にBlack & Blueをフィーチャー!B&Bに出演するバンドのナンバーをかけまくった!しかし、何とも吃驚なのは、声質、話し方ともにプロのパーソナリティーではないか。声を仕事にするひととは常日頃一緒に仕事をしてますが、ほんと、プロにひけを取らない、マイクのりのいい声と滑舌の良さでした。Good Job !
一昨日。
ついに42歳の誕生日を迎えてしまいました。

. . .文字にすると重いなあ。

この日はBlack & blueのセッションデイ。いつものように弾いて歌って、その後Flying Walrus & ZuZuさんでミニライヴをやらせて頂きました。
同じく誕生日のFWのたけだっちはステージ上で演奏してる最中に
大量に吞まされてました。
こんな誕生日はひさしぶりですね。
とことん楽しんでしまいました。

Cold Beer & Crazy Beat!~ FLYING WALRUS AKIHIのBlog-ケーキ

さて、誕生日のイベントはまだ続きまして、
明後日28日はAKIHI & たけだのバースデーパーティ!
そう、一昨日はあくまでセッションデイ。
明後日はパーティです。私とたけだっちがホストです。
一昨日は楽しませてもらいましたが、明後日は楽しませてあげます。
どうぞ皆さん、Black & Blue特性Cold Beerを吞みにきてください!
出演
・ジョニー&ウォーリー
・EBI
・FLYING WALRUS(with ZUZU)
・天極
¥2,000+1Drink ! 18:30~

さらに!
明日27日、同じくBlack & Blueで、アニソンイベント
"ゆる☆アニLIVE-First Impact-"
に出演します。
80年代のアニメソングをライヴで歌ってしまいます。
ついさっき、そのための映像の編集が終わりました。

¥1,500+1Drink 11:00~
AKIHIの出番は12:30ころ(お昼ですよ)

さて
このイベントの最後に、"We Are The World"ばりに出演者全員で歌う曲があるんですが、、、
正直、ちょっと躊躇してます。。
Flying Walrus Live At 吉祥寺Black & Blue
昨日はキヨシロー生誕前々夜祭

セットリスト
1.空がまた暗くなる(AKIHI&エージ)
2.Oh Baby(AKIHI&エージ)
3.Walk Don't Run
4.ピアノ
5.いい事ばかりはありゃしない
6.多摩蘭坂
7.Cold Beer & Crazy Beat~ロックンロール・ショー
8.サマータイム・ブルース

サマータイム・ブルースはThe Whoのヴァージョンにキヨシローの詞をのせて。

対バンは、
大往生。オーティスのナンバーを熱唱。 大山くんは歌もギターも上手い。いつも感じる。ボサノバチックなサン・トワ・マミーも良かった。
Strange Desease
今回は凄い!完全にディジーズ節にアレンジされたRC。I Like Youとかコードも変えてやってたし。

キヨシローさんは、大きな壁で、広い海で、マイルストーン。

 昨日は吉祥寺Black & Blueでライヴ。今のメンバーになってから、既に何回かライヴをやってますが、ようやくデビューできた感じです。いろんな人に祝ってもらいました。


Cold Beer & Crazy Beat!~ FLYING WALRUS AKIHIのBlog-130223
写真:HiRO

セットリスト
1.エンジン
2.不埒A-GoGo
3.Love (Makes The World Go Round)
4.恵みの雨
5.ピアノ
6.Cold Beer & Crazy Beat

Flying Walrusロゴのステッカーができました!
Cold Beer & Crazy Beat!~ FLYING WALRUS AKIHIのBlog-logo

Special Thanx : しまや出版